ポストモダンコミュニケート。
昨今の人々のコミュニケーションの仕方は変化している。かつては手紙や電話を除き実際に相手と会わないと話ができなかった、そしてパソコンやケータイが台頭し、顔のみえない通信コミュニケーションが生まれ、現在では、あえてメールを打って返信を待たなくてもSNS上での短いやりとりで会話を済ましてしまうのが最新式のコミュニケーションである。SNSの仕組みについては第3章の3項で述べたが、むろんSNSでも一人の他者と会話のやりとりはできる。しかし、ツイッターなどの場合、メールや電話のように周囲が遮断されているわけではなく、特定の他者とやりとりをしながら、同時に他の人の書き込みを閲覧することができる。そして周囲の人たちはその二人のやりとりを閲覧することができ、いきなりその会話に飛び込むこともできる。それを考えてみると特定の誰かとのコミュニケーションツールというよりはSNSとはいわば公開チャットのようなものと考えてよいだろう。そのため、会話することや情報を得ることにおいて特定の他者を必要としていないため、一旦一人の相手の意見を受け止めるという共感プロセスを持ちにくいのが特徴である。先述したとおり、SNSでは自分にとって趣味や意見の合う人たちとつながり、居心地のよい自分の友達リストを作成できる。そのようにして自分のディスプレイ上につながりが作られていく。それがソーシャルネットワーク本来の目的であり多くのユーザーはそのゆるいコミュニケーションを楽しんでいる。しかし、リアルにおける自分の社会構築はそういうプロセスでは作れない。あらかじめプロフィールを知った上で相手と会話するというのは、お見合いやネットで知り合った人と直接会うことなどを除いて本来不可能なことである。そして、画面上に並列された不特定多数のプロフィールを閲覧し、あらかじめ誰かと誰かを比較検討し、好きな人を選んでつながるというのもやはり、リアルではホストクラブでもなければ不自然な行為である。このようにコミュニケーションによって相手のプロフィールを知っていくプロセスが必要とされないSNSが日常生活の身近なものになってきたことによって、昨今のリアルな人間関係におけるコミュニケーションに何か影響を及ぼしているのではないか、と私は考えている。例えば、相手の発言をネットで何かを検索しているときのように、特に自分にとって興味のない内容は全部聞き流してしまったり、SNS上で不特定多数のプロフィールを閲覧するように他の誰かと誰かをすぐに相対化してしまうなど、例えばそういったコミュニケーション障害のようなものが起きているのではないだろうか。序論でも述べたが、自分の経験上の事もあり、リアルがSNS化してしまっているとでもいおうか、つまり、一言でいえば実生活において「目の前に相手がいるのに相手の話が聞けない。」人が増えているのではないかと私は思う。この点と似たような問題について、東浩紀が動物化と揶揄しているものがあるので引用してみたいと思う。「…切りつめて一言でいうと、他人に尊敬されたいとあまり思ってないこと、これが僕の言う「動物化」の本質です。他者関係において自分の欲望をコントロールしていないということです。簡単な例をあげると、映画を見て、おもしろくないと思っても、もし友人がおもしろいと言ったら、どこがおもしろいのか訊いたりしますね。そして、ときに、相手の意見に納得して別の見方を手に入れたり、あるいは、単にカッコイイと思われたいがためにアートな映画をわかったふりをしたりする(笑)。これはすべて、コミュニケーションによって自分の初期の感覚を訂正しているわけです。人間の文化はそうやって成立している。ところが、最近のエンターテイメントの消費には違う傾向が出ています。ドラッグ化とでも言うべきか、個人的な快不快が絶対のものになって、他者との価値観の共有には重きが置かれない。「おまえ、泣けたんだ。オレ泣けた」「おまえ、泣けたんだ。オレ泣けなかった」、それで終わり。自分の身体的で瞬間的な感覚が絶対化していて、他者とのコミュニケーションで訂正したりしない。(東『ネット社会の未来像』36、37頁)」ここで重要な点は自分の感覚を絶対化してしまっているというところではないかと思う。これがSNSであれば自分一人に対して相手は不特定多数であるから一人一人の意見を一旦受け止めるのは困難であるし、自分の感覚をもってしか、その不特定多数の人々を見ることができない。パソコンのディスプレイの前に座っているのは自分一人しかいないからである。これはパソコンという既に個人に付随してしまっているインフラと、SNSというツールを使っているかぎりは普通のことである。が、しかし、リアルな他者関係においても自分の感覚を絶対化して、目の前に相手がいるのにもかかわらず、相手の発言に対して何も受け止めず、無関心であるという事は、一緒に何かエンターテイメントを消費する行為自体が無意味なものになってしまうし、東氏の例でいえば、別々に同じ映画を見て、あとでツイッターでつぶやき合ったとしても同じことではないだろうか。ただ、誰かと、一緒に映画を見た、それだけのことである。そこに何か価値観の共有や相手の意見を聞いて自分もそれに答えるというのようなコミュニケーションは構築されていないのである。
.
言語学において私たちはコミュニケーションせずにはいられないという。そしてCommunicationの”co”とは『共』という意味であり、他者なしではできないものである。ここでいう他者とは不特定多数のときもあるが、通常対話という場合は一人の他者である。この人間のコミュニケーションには相手の反応を前提とした「意図」があり、これが動物と人間を区別しているとも言われている。一方、東氏の例のように映画を一緒に見に行ったときに、「おまえ、泣けたんだ。オレ泣けた」「おまえ、泣けたんだ。オレ泣けなかった」それで終わり。という会話はコミュニケーションとはいえない。相手の主張にただ自分の主張で返しただけであり、これではツイッターでのつぶやき合いと変わらない。ツイッター等のつぶやき機能は誰かの反応を意図しないで発言したものが、それを見ている不特定多数の周りのユーザーが勝手に反応したりするため一見コミュニケーションしてるかのように見えるが、ユーザーが相手の反応を前提としていない場合のSNS利用はそもそもコミュニケーションとは言えないのではないだろうか。通常リアルでの会話の場合には存在しているであろう、その場を楽しませようとしたりするインセンティブや、盛り上げようとする意図、何か自分の感情や意思を相手に伝えようとする意図性がSNSにはないからである。これでは、物語消費論と同様、自分で発言し勝手に感想を述べ、自分でそれを見て楽しんだけであるかのように見える。人間の感情表現について、放送大学教授の船津衛氏は、感情はただ表現されれば、それでよいというものではない。たしかに赤ん坊は泣くことや笑うことで自分の欲求を満たすことができる。しかし、それは母親や父親、また養育者によって鳴き声や笑い声の意味が理解されるからである。けれども、それは自我を持った人間の感情表現とはいいがたい。感情表現はそのままでは他者の認識や評価を得ることに結び付かない。感情表現は感情の単なる随伴現象ではなく、それは社会的に表現するように社会化されなければならない。社会化されない感情表現は他者の理解を得られないのみならず、誤解や否定を生み出すことになる。(船津『コミュニケーションと社会心理』104,105頁)――と述べている。船津氏の言うように、本来私たち人間は何か主張するにも社会化される必要があるのだと思われる。なぜなら人は一人ではなく他者と関わる社会で生きているからである。物心つかない子供のように相手の気持ちを考えず、目の前の相手に対して意図もなく感情表現をするというのは大人がやっていたらある種の暴力である。そこからは船津氏のいうとおり誤解や否定という軋轢が生まれてしまうだろう。もちろん相手の反応どうこうではなくて自分の意見を自分の言葉で意思表示するというのはどこでも必要である。しかし、コミュニケーションとは自分が何かを主張するだけのことをいっているのではなく、相手の反応を予測し、相手の話や考え方、感じ方を聞いて受け止め、その互いのやりとりから何かを得るという行為を含んでいるものだと私は思う。コミュニケーションとは主張ではない、会話である。そもそも一人で自己完結できてしまう会話はコミュニケーションではない。むろんツイッターやSNSでの感情表現は一人でも意味がある。なぜなら前述したとおり、多くのユーザーは誰かへのメッセージに使っているわけではなく、ただの独り言や、主張を投稿してそれを見ることを楽しんでいるからである。メールでもないかぎりSNSのような自分の投稿が不特定多数に見られるツール、そして、不特定多数の投稿によって自分の投稿がすぐに埋もれてしまうツールにおいて誰か特定の人物への意図したメッセージを主張するのに使う人は稀であろう。リアルとSNSの会話にはこのような違いがあるのではないだろうか。そして、近年では不特定多数を相手にするSNSでのやりとりが人々の、特に若者の生活においてあまりにも一般化してしまい、リアルな会話においても東氏のいうような『動物化』ともいえる、意図しない、受け止めない、ただの「つぶやき合い」コミュニケーションが日常になってしまっているのではないかと私は考えている。
繰り返し述べるが、私たちは今、社会の全体像を想像しにくい世の中を生きている。資本主義という予定調和が裏切られたことによって政治や社会のイデオロギー体系を失い、人々は右往左往しながら自分なりの生き方を模索している。かつてのイデオロギーに反発するような全共闘やオウムなどが相次いだ時代もあったが、これらにより、集団で何かを目指してしまうのは危険なものであり、生真面目に何かをやるのは個人であるべきだという風潮が返って強まり、また、近年において2001年には原理主義はテロリズムであり、狂気であることを象徴するかのように911テロが起きた。個人と自己責任を重んじるポストモダンとはそういった集団イデオロギーによる数々の事件への反省から色濃く影響を受けている。このようなかつての慣習や集団に対する嫌悪が蔓延するなか、現代ではあらゆる文化が個人に細分化され、「本当の自分」「自分に素直に」「好きなものは好き」「自分を信じて」などといった自我を全面に押し出す精神を打ち出している。しかし、この一見前向きであるかのようにみえる風潮とは裏腹に近年人々の間に「アイデンティティの喪失」が生じているといわれている。選択肢が広がった結果「自分が何であるかわからない」と訴える人が多くなり、大学に入っても何をしたらよいのかわからないという悩んでしまう学生も多い傾向にある。自分がどうしたらわからないと強く思うものが自分を問い詰めて、「この世に自分の存在価値なんて何もない」という「自己否定」を行い、自傷や自殺を企てようとする人たちもいる。俗に言う”メンヘラ”と呼ばれる人たちは主に女性に多いとされているが、彼女たちはこの自分が何であるかわからないために「自己否定」をし、その自尊心の低さ故に対人恐怖を持ちながら、心を開いた他者に対しては一転して依存的になり、退行したあげくに欲求が満たされないとして攻撃的になるという対人関係様式を持つような人々である【wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/アダルトサヴァイヴァー 】。学術的に述べればこれはアダルトチルドレン(注1)や境界性人格障害(注2)の一種とされているが、特に本格的な精神病でもないのにもかかわらず「自己否定」を行い、自尊心の低さを自分のアイデンティティにし、あたかも精神を病んでいるかのようにふるまってしまう人々が昨今では問題視されている。 一方これとは逆に「自分がどうしたらよいのかわからない」という不安から逃れるために自分の「全面肯定」、つまり自分は絶対であるとして「他者否定」を行う若者も多い。東氏のいう「動物化」にも似ているが、自分の感覚が自分の中で全面肯定され絶対化されてしまい、人の話を聞いたとしてもすぐに否定してしまい、自分の発言によって相手を傷つけたとしても、自分の感覚が絶対的なために相手の気持ちを思いやる想像力がなく、なぜ相手が傷つくのかが理解できない。そういったことで彼らはたびたび人間関係に軋轢を生んでいる。コミュニケーションについては先述したが、対話とは喧嘩でもないかぎり、相手の反応が前提とされており、こう言ったらこのように思うだろうという相手の気持ちに対する想像力が必要なものである。しかし、自分が絶対的存在故「他者否定」を行ってしまう人にとってはそういった想像力が欠落している。また、近年ではバラバラ殺人や無差別殺人などの凶悪な事件が多発している。2008年の秋葉原通り魔事件は記憶に新しい。犯人は精神病か何かなのかと思えばいたって普通の人物であり、特に犯行に及ぶ明確な動機もなく、たとえ何人もの命を奪ったとしても、犯人は自分は別に普通の人間であり、特に間違ったことをしていないとしている事件が多くみられている。これに象徴されるように「自己肯定」とはある種のナルシシズムであり、不安から逃れるために「他者否定」の暴力をふるい、さらにこれが助長されると人の命さえも平気で奪ってしまうのだろうと私は考えている。「自己否定」も「他者否定」もその底には「アイデンティティの喪失」があり、そこからいったい自分は何者であるかと自分を問い詰めたところで何も出てこないのではないだろうか。(船津2005)たしかに、自己を否定しても、他者を否定しても、そこに自分の性格や自我があるわけではない。自我とは玉ねぎによく例えられるが、最後まで剥いていってもそこに何があるのか自分で自覚できるわけではないし、むしろ、剥いていく途中でさまざまな自己を発見していくものではないかと私は思う。専門家や仕事で偉業をなしとげている人はその専門性に自我を見出したりするが、必ずしも彼の自我がその専門性一つのもので成り立っているかといえばそうとは言えない。ポストモダンのように自分で自分の生き方をみいださなければならない世の中において、自分を問い詰めた結果「自分には結局何もないのだ」と早急に結論づけて「自己否定」や「他者否定」に走り、そこにアイデンティティを見出してしまうのは空虚なものであるが、人間は不安定なときというのは極端に陥りやすいものである。現代の人々は社会や自分の人生の不安感ゆえにそうしがちなのではないかと私は考えている。
注1)機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ、という考え方、現象、または人のことを指す。一般には、親からの虐待や、アルコール依存症の親がいる家庭や機能不全家庭で育ち、その体験が成人になっても心理的外傷として残っている人をいう。破滅的であったり、完璧主義であったり、対人関係が苦手であるといった、いくつかの特徴がある。成人後も無意識裏に実生活や人間関係の構築に、深刻な悪影響を及ぼしている。
注2)境界型人格障害とも呼ばれ、思春期または成人期に多く生じるパーソナリティの障害である。不安定な自己-他者のイメージ、感情・思考の制御の障害、衝動的な自己破壊行為などの特徴がある。自殺率が非常に高く、通院患者の10%にも及ぶというデータもある。一般ではボーダーラインと呼称される事もある。 参考:斉藤学『アダルトチルドレンとその家族』
現在は、人々の生き方がより多様になり、自分の好きなことをできる自由な時代である。どの文化も自我を謳歌している。しかしそれに加え、自由になったが故に以前よりもより自分の選択がより重いものになり、一つ一つの行動に対して自己責任という言葉がつくようになった。政府も社会も地域コミュニティさえもかつてないほどに一人ひとりの人生を保障してくれなくなっている。思うに、元々人間には矛盾があり多元性に満ちているはずである。それを画一化してしまってたのがかつてのイデオロギーであり、戦後から高度経済成長期の発展段階において新たな日本人を形作ろうとしたために、朝の連載テレビ小説に出てくるようなきちんとした大人、ホームドラマのようなきちんとした家庭、人生ゲームのようなきちんとした人生設計モデルが機能していただけの話である。今考えてみれば、生き方や人の性格にお手本のようなものがあること自体がおかしいのではないだろうか。「日本人らしさ」というのはあってもそれをあえて意識して生きる必要は儀式的な場でもないかぎり個人の自由である。そして、何度も述べるが今はポストモダンの時代である。社会のグローバル化、情報化、あらゆるところで変化が激しく、人一人が関わる情報や人間の量と質が大幅に増大し、それぞれの場面に対して対応しなければならない。そのため、自身のアイデンティティに統一性は必要なく、むしろ、複数の自我が必要になってくるのではないだろうか。
社会学者の見田宗介は「時代は十人一色の時代から十人十色の時代へ、そして一人十色の時代へ」移り変わっていると述べている。(見田1995)これは多重人格が必要だというわけではない。自分の本質的なキャラクター、例えば性格や癖など基本的なものは持っているが、いくつかの対応レパートリーを持っていなければ、多くの他人、そしてそれぞれの他者に対応できない時代であるということである。なぜなら、現代は自分自身も、周りのどの他者も各自が自分の生き方、小さな物語で生きているからである。そこにはお互いの根底にかつてあったような共通のイデオロギーがないため、小さな物語と小さな物語の理解とコミュニケーションによってしか他者と関わることができない。なんとかさん家のなんとか君といったご近所付き合いは未だにあるかもしれないが、まるっきり事前情報も共通コミュニティもない他者と関わるときはそうはいかない。SNSによってあらかじめプロフィールを知っておくことはできるが、リアルで人と関わっていくときはそうではない。たとえ自分自身に自分がどんな自己像を抱いていようが、周りからは自分のとった行動や言動で評価・決定がなされてしまう。にもかかわらず、自分は「~な人間だ。」というある種のキャラクター設定を持っていて、その承認を周りにしてもらうことでアイデンティティを確保しようとする人もいるが、それではもはや押しつけであるし、3項で自己否定にアイデンティティを見出す「メンヘラ」という例を出したが、これもキャラクター押しつけの一種であり、自己の全面肯定により、相手の気持ちもそっちのけで自分のしたことは「周りが勝手に判断してくれればよい」というのも無責任な押しつけである。このように自分の自己像を他人に押しつけたところで承認は得られないのである。人は多面性と矛盾にみちている。そして昨今ではお互いに共通イデオロギーを見出しにくいため、相手を知るにはその相手とのコミュニケーションでしかその人を知っていくことができない。何も言わずに待っていても誰も理解しようとしてくれる人はいない、同じ趣味同じ考え方同じコミュニティの人をみつけては安心感を覚えるのも可能であるが、そこから自分は何も変化しないし、自分が自分に抱いているアイデンティティの補強にしか役に立たない。都合のいいものだけで小さな物語を形作ることは思考停止だと言われているが、私自身もそう考えている。アイデンティティとは自分の関係者や、家庭や所属コミュニティという外部から形作られるものではない。そういう時代もたしかにあったが、今は違う。だからといって一人で自分を問い詰めつづけて、一人で自我を考えぬき、それを他者に押しつけたり、近場の人たちを取り込んでいっても何にもならない。
このように人々が「本当の自分」を求めて右往左往している社会において、「自分を知る」には、玉ねぎを剥いていくのではなくて、自分と関わるさまざまな情報、それぞれの他人への対応の仕方という、一枚一枚の玉ねぎの皮を得ながら一個の玉ねぎという自分を知っていくのではないかと私は思う。他者とコミュニケーションすることによって自己を知るともいう。自分の言動や態度から自分は他人からどのように見られているのかを知り、自分の言葉や主張によって他人がどう反応するのか、他人の言葉によって自分がどう感じるのか。意図して主張したときに相手とどんなズレが生じるのか、そして、そのズレを未然に防ぐために自分はどんな表現をすればよかったのか。そういった「アウトプットされた自分」を考えることで自分自身を知っていくのだと思う。人と関わり、コミュニケーションするとはそういうことなのではないかと考えている。
近年、話を聞けない人が増えていると言われている。相手の話を最後まで聞かずに結論を早く求めてしまったり、話し終わるまで待てず、話の途中で理解したつもりになっている人が多いのだそうだ。特に我々学生を例に出すとすれば、話が難しすぎるのか否か、授業の内容を勝手に解釈し勝手に理解できた気になっている学生が多いとどこかの先生が嘆いていたが、普段の会話においても「この人聞いてないな。」と思う場面が私の身近にもよくあるなと共感した。なぜ彼らが人の話を聞けないのかということを考えてみると、冒頭に述べたとおりやはり「小さな物語」化しているのが原因なのではないかと私は思う。これまで述べてきたように、近年のポストモダン下においては自分でコンテンツを生産し消費する物語消費が流行り、ネット上のプロフィールから自分と気の合いそうな友達をリストアップすることができ、ネットという大容量デバイスから自分の信用できる情報だけをダウンロードすることができる。つまり世間や社会がどんなに迷走していようと個人は自分ワールドを作ることができる。このようなことに関して、津田大介が彼のメールマガジンにおいて「意見を交換し合う時に自分と同じような人との意見交換はやがて閉塞化していく。」と述べていたが、たしかにそういうふうに自分の好きな、自分にとって都合のいい世界で過ごしている人は自分とは違う価値観にブチ当たることがないため、「考えなくなる」のかもしれないと私は思う。むろん、好きなものだけで生きていきたいと思うのは本来人の性であるし、わざわざ悲しい経験をしろだとか、難しいことに立ち向かえとはいわない。しかし、これでは自分は何も変わらないし成長しないのではないだろうか。既に自分の中に自分ワールドが構築されてしまっていて、自分のデータベースにないものや自分自身の価値観だけで信用できないと判断したものには見向きもせず、自分の言うことを理解してくれない人は排除していってしまう。そういう傾向が「小さな物語」化の裏側にあることが、「聞けない人」が多くなってしまった原因なのではないかと私は思う。「小さな物語」、つまり自分の生き方、ステータス、自己像を持つのはこの世の中では普通のことである。そうでなければ私たちは迷ってしまうからである。しかし、自分の都合のいいことだけ取り込んで生きていては自分の世界は一向に広がらない。そして何より自分とは違うものに対する感受性が鈍化してしまうということは、自分と他人は違うのだという想像力を失ってしまうということである。都合の悪いもの、価値観の違うものを排除しつづければ一向に他人を知ることができない。ということは、社会の中での自分を位置づけることもかなわないだろう。いくらネットで調べても、それが本当かどうかはわからない。知った気にはなれるかもしれないが、一つの情報源で判断するのは安易である。人間に対しても、いくら相手の一面を知っていようが、それがその人の芯とは判断できない。思うに、ポストモダンでは個人と個人が島宇宙化している。しかし、だからこそ他の小さな物語の存在を許容することが大切であり、人との関係というのがコミュニケーションによって書き換え可能になっているのである。お互いの共通イデオロギーがないからこそ、相手を認めることから始めれば、共通イデオロギーなくして、1対1で理解しあえる可能性が私たちにはあるのではないだろうか。
一旦、目の前に座っている人物の話を受け止めず、他の人とすぐ相対化してしまう人がいる。その人が何か言っても「あーうちの母親もそうだったよ。」とか「あーそういえばあの人もねー…」など自身の近辺の人の話に持っていってしまう。そんな人がいる。最初にも述べたが、先生が何か授業をしたとしても、「あーこれに関しては他の教授は違うっていってたなー」とか「他の本ではこんなふうに言ってたんだけど…」と授業内容を一旦受け止めずにすぐ他の知識と比較してしまう。そんな人もいる。こういう第3者から見て奇妙な会話は自分の生活の中でよく見られたが、この場合は聞き手が相手の話を自分のデータベースと単に相対化しているだけであって、「受け止めてる」とは微塵とも言えない。これも「話を聞いてない」人たちのうちの一つではないだろうか。受け止めるというのは、相手が何か発言したときに、「この人は今日こんなことがあって、こんな意見を持っている。」という事実をそのまま受け止め、自分がそれに対してどう思うのであれ「そうだったんだー」とか「そうなんだー」と一旦相槌を打てばいいだけである。誰も相手の母親や知り合いと比較してほしくてその人に発言しているわけではないだろう。コミュニケーションを投げかけるというのは通常単に、その人に伝えているだけである。そういったすぐ自分のデータベースと比較してしまうような、自分の価値基準でしかものごとや他人を判断することができない「小さな物語」に囚われている人にいくら話をしてもこちら側にベクトルが向かないなら、はっきりいってほっとけばいい話である。ポストモダンがどうのではなく、もともとの性格で他人に興味がないという人はたしかに存在するのだ。しかし、何度も述べるが、いくらポストモダンで多くの人々が自分の小さな物語で生きようと、自分が前進するためには新しい誰かとのコミュニケーションが必要なのである。コミュニケーションといっても、自分の考えていることを的確に表現するのは誰でも難しいことである。しかし、それを割り切って言葉にしないで何もしないかぎり、誰にも自分の意思は伝わらないものである。言わなくても誰かが勝手に察してくれるなんて都合のいいことはない。自分の家庭だとかコミュニティだとかの他の誰かが自分の意見を補償してくれていて、誰かと誰かを比較して自分はこう思うというのもそれはもはや本来の自分ではない。他の誰かと似ていようが、誰かに否定されようが、その人にはその人の感情があるし、私が私であることから離れることは誰にもできない。そして、私たちは他の誰かにはなることができない。責任とはそういうことではないだろうか。他の誰かになることができないから、コミュニケーションによって他人を理解し、他人によって自分が理解されていく。また、対話で表現するのには流暢な言葉やかっこよさはいらないし、いい人を演じる必要もない。言葉がどもることについて、作曲家の武満徹が、
「どもりはあともどりではない。かつては、人間の発音行為は全身によってなされていた。しかし、脆弱な論理に従って口先だけでされるようになってからは、音楽も詩もつまらなくなってしまった。(中略)自然科学の発達につれて語彙が膨らんでいく一方で、ことばは単に他を区別するだけの機能になりさがった。ことばは生命のサインとして機能しなくなったのである。生命のサインという、ことばの根本の言語機能の問題を、我々は考えるべきであろう。音の世界でも、ことばと同じことが起きている。現在の音楽は、脆弱な論理の結果でしかない。一人の人間の最も根源的なものに連なる童歌がもつような、初源的な力を回復しなければならない。その回復の試みは、発音するという行為の本来の意味を確かめることからはじまる。どもりは発音するという行為の根源的なものであり、その偉大さは反復にある。それは地球の回転、四季の繰り返し、人間の一生のあらわれなのである。‐武満徹『吃音宣言』より」
と述べているが、たとえどもっていても、ゆっくりしかしゃべれなくても、伝えたいという意思が体にありさえすれば伝わるのが人のコミュニケーションではないかと私は考えている。
たしかに、現在はポストモダンで私たちは自分にとって都合のいい自分の小さな世界を作りがちだけれども、だからこそ違う物語を生きる他者と関わっていくことが重要なのではないかと私は思っている。小さな物語の中で過ごすだけでは私たちは何も変わらない。大きなイデオロギーというしがらみがなくなった今、人々はより自分らしい小さな物語を持って生きている。いろんな人がいるのだろう。そしてネットを使えば国を超えたさまざまな「小さな物語」に出会うことができる。評論家や試合の監督のごとく誰かと誰かと比較し、距離をおいたところから相手を分析したり、都合のいい人たちだけを抜粋して関わるのではなくて、目の前に人がいるならその人がどういう人間であるのかコミュニケーションをしながら「聞いてみたい」と私は思う。私が私自身を知るのには他者を知る必要があるからである。
(2月4日、2011年度学部の卒論より一部抜粋修正)
繰り返し述べるが、私たちは今、社会の全体像を想像しにくい世の中を生きている。資本主義という予定調和が裏切られたことによって政治や社会のイデオロギー体系を失い、人々は右往左往しながら自分なりの生き方を模索している。かつてのイデオロギーに反発するような全共闘やオウムなどが相次いだ時代もあったが、これらにより、集団で何かを目指してしまうのは危険なものであり、生真面目に何かをやるのは個人であるべきだという風潮が返って強まり、また、近年において2001年には原理主義はテロリズムであり、狂気であることを象徴するかのように911テロが起きた。個人と自己責任を重んじるポストモダンとはそういった集団イデオロギーによる数々の事件への反省から色濃く影響を受けている。このようなかつての慣習や集団に対する嫌悪が蔓延するなか、現代ではあらゆる文化が個人に細分化され、「本当の自分」「自分に素直に」「好きなものは好き」「自分を信じて」などといった自我を全面に押し出す精神を打ち出している。しかし、この一見前向きであるかのようにみえる風潮とは裏腹に近年人々の間に「アイデンティティの喪失」が生じているといわれている。選択肢が広がった結果「自分が何であるかわからない」と訴える人が多くなり、大学に入っても何をしたらよいのかわからないという悩んでしまう学生も多い傾向にある。自分がどうしたらわからないと強く思うものが自分を問い詰めて、「この世に自分の存在価値なんて何もない」という「自己否定」を行い、自傷や自殺を企てようとする人たちもいる。俗に言う”メンヘラ”と呼ばれる人たちは主に女性に多いとされているが、彼女たちはこの自分が何であるかわからないために「自己否定」をし、その自尊心の低さ故に対人恐怖を持ちながら、心を開いた他者に対しては一転して依存的になり、退行したあげくに欲求が満たされないとして攻撃的になるという対人関係様式を持つような人々である【wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/アダルトサヴァイヴァー 】。学術的に述べればこれはアダルトチルドレン(注1)や境界性人格障害(注2)の一種とされているが、特に本格的な精神病でもないのにもかかわらず「自己否定」を行い、自尊心の低さを自分のアイデンティティにし、あたかも精神を病んでいるかのようにふるまってしまう人々が昨今では問題視されている。 一方これとは逆に「自分がどうしたらよいのかわからない」という不安から逃れるために自分の「全面肯定」、つまり自分は絶対であるとして「他者否定」を行う若者も多い。東氏のいう「動物化」にも似ているが、自分の感覚が自分の中で全面肯定され絶対化されてしまい、人の話を聞いたとしてもすぐに否定してしまい、自分の発言によって相手を傷つけたとしても、自分の感覚が絶対的なために相手の気持ちを思いやる想像力がなく、なぜ相手が傷つくのかが理解できない。そういったことで彼らはたびたび人間関係に軋轢を生んでいる。コミュニケーションについては先述したが、対話とは喧嘩でもないかぎり、相手の反応が前提とされており、こう言ったらこのように思うだろうという相手の気持ちに対する想像力が必要なものである。しかし、自分が絶対的存在故「他者否定」を行ってしまう人にとってはそういった想像力が欠落している。また、近年ではバラバラ殺人や無差別殺人などの凶悪な事件が多発している。2008年の秋葉原通り魔事件は記憶に新しい。犯人は精神病か何かなのかと思えばいたって普通の人物であり、特に犯行に及ぶ明確な動機もなく、たとえ何人もの命を奪ったとしても、犯人は自分は別に普通の人間であり、特に間違ったことをしていないとしている事件が多くみられている。これに象徴されるように「自己肯定」とはある種のナルシシズムであり、不安から逃れるために「他者否定」の暴力をふるい、さらにこれが助長されると人の命さえも平気で奪ってしまうのだろうと私は考えている。「自己否定」も「他者否定」もその底には「アイデンティティの喪失」があり、そこからいったい自分は何者であるかと自分を問い詰めたところで何も出てこないのではないだろうか。(船津2005)たしかに、自己を否定しても、他者を否定しても、そこに自分の性格や自我があるわけではない。自我とは玉ねぎによく例えられるが、最後まで剥いていってもそこに何があるのか自分で自覚できるわけではないし、むしろ、剥いていく途中でさまざまな自己を発見していくものではないかと私は思う。専門家や仕事で偉業をなしとげている人はその専門性に自我を見出したりするが、必ずしも彼の自我がその専門性一つのもので成り立っているかといえばそうとは言えない。ポストモダンのように自分で自分の生き方をみいださなければならない世の中において、自分を問い詰めた結果「自分には結局何もないのだ」と早急に結論づけて「自己否定」や「他者否定」に走り、そこにアイデンティティを見出してしまうのは空虚なものであるが、人間は不安定なときというのは極端に陥りやすいものである。現代の人々は社会や自分の人生の不安感ゆえにそうしがちなのではないかと私は考えている。
注1)機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ、という考え方、現象、または人のことを指す。一般には、親からの虐待や、アルコール依存症の親がいる家庭や機能不全家庭で育ち、その体験が成人になっても心理的外傷として残っている人をいう。破滅的であったり、完璧主義であったり、対人関係が苦手であるといった、いくつかの特徴がある。成人後も無意識裏に実生活や人間関係の構築に、深刻な悪影響を及ぼしている。
注2)境界型人格障害とも呼ばれ、思春期または成人期に多く生じるパーソナリティの障害である。不安定な自己-他者のイメージ、感情・思考の制御の障害、衝動的な自己破壊行為などの特徴がある。自殺率が非常に高く、通院患者の10%にも及ぶというデータもある。一般ではボーダーラインと呼称される事もある。 参考:斉藤学『アダルトチルドレンとその家族』
現在は、人々の生き方がより多様になり、自分の好きなことをできる自由な時代である。どの文化も自我を謳歌している。しかしそれに加え、自由になったが故に以前よりもより自分の選択がより重いものになり、一つ一つの行動に対して自己責任という言葉がつくようになった。政府も社会も地域コミュニティさえもかつてないほどに一人ひとりの人生を保障してくれなくなっている。思うに、元々人間には矛盾があり多元性に満ちているはずである。それを画一化してしまってたのがかつてのイデオロギーであり、戦後から高度経済成長期の発展段階において新たな日本人を形作ろうとしたために、朝の連載テレビ小説に出てくるようなきちんとした大人、ホームドラマのようなきちんとした家庭、人生ゲームのようなきちんとした人生設計モデルが機能していただけの話である。今考えてみれば、生き方や人の性格にお手本のようなものがあること自体がおかしいのではないだろうか。「日本人らしさ」というのはあってもそれをあえて意識して生きる必要は儀式的な場でもないかぎり個人の自由である。そして、何度も述べるが今はポストモダンの時代である。社会のグローバル化、情報化、あらゆるところで変化が激しく、人一人が関わる情報や人間の量と質が大幅に増大し、それぞれの場面に対して対応しなければならない。そのため、自身のアイデンティティに統一性は必要なく、むしろ、複数の自我が必要になってくるのではないだろうか。
社会学者の見田宗介は「時代は十人一色の時代から十人十色の時代へ、そして一人十色の時代へ」移り変わっていると述べている。(見田1995)これは多重人格が必要だというわけではない。自分の本質的なキャラクター、例えば性格や癖など基本的なものは持っているが、いくつかの対応レパートリーを持っていなければ、多くの他人、そしてそれぞれの他者に対応できない時代であるということである。なぜなら、現代は自分自身も、周りのどの他者も各自が自分の生き方、小さな物語で生きているからである。そこにはお互いの根底にかつてあったような共通のイデオロギーがないため、小さな物語と小さな物語の理解とコミュニケーションによってしか他者と関わることができない。なんとかさん家のなんとか君といったご近所付き合いは未だにあるかもしれないが、まるっきり事前情報も共通コミュニティもない他者と関わるときはそうはいかない。SNSによってあらかじめプロフィールを知っておくことはできるが、リアルで人と関わっていくときはそうではない。たとえ自分自身に自分がどんな自己像を抱いていようが、周りからは自分のとった行動や言動で評価・決定がなされてしまう。にもかかわらず、自分は「~な人間だ。」というある種のキャラクター設定を持っていて、その承認を周りにしてもらうことでアイデンティティを確保しようとする人もいるが、それではもはや押しつけであるし、3項で自己否定にアイデンティティを見出す「メンヘラ」という例を出したが、これもキャラクター押しつけの一種であり、自己の全面肯定により、相手の気持ちもそっちのけで自分のしたことは「周りが勝手に判断してくれればよい」というのも無責任な押しつけである。このように自分の自己像を他人に押しつけたところで承認は得られないのである。人は多面性と矛盾にみちている。そして昨今ではお互いに共通イデオロギーを見出しにくいため、相手を知るにはその相手とのコミュニケーションでしかその人を知っていくことができない。何も言わずに待っていても誰も理解しようとしてくれる人はいない、同じ趣味同じ考え方同じコミュニティの人をみつけては安心感を覚えるのも可能であるが、そこから自分は何も変化しないし、自分が自分に抱いているアイデンティティの補強にしか役に立たない。都合のいいものだけで小さな物語を形作ることは思考停止だと言われているが、私自身もそう考えている。アイデンティティとは自分の関係者や、家庭や所属コミュニティという外部から形作られるものではない。そういう時代もたしかにあったが、今は違う。だからといって一人で自分を問い詰めつづけて、一人で自我を考えぬき、それを他者に押しつけたり、近場の人たちを取り込んでいっても何にもならない。
このように人々が「本当の自分」を求めて右往左往している社会において、「自分を知る」には、玉ねぎを剥いていくのではなくて、自分と関わるさまざまな情報、それぞれの他人への対応の仕方という、一枚一枚の玉ねぎの皮を得ながら一個の玉ねぎという自分を知っていくのではないかと私は思う。他者とコミュニケーションすることによって自己を知るともいう。自分の言動や態度から自分は他人からどのように見られているのかを知り、自分の言葉や主張によって他人がどう反応するのか、他人の言葉によって自分がどう感じるのか。意図して主張したときに相手とどんなズレが生じるのか、そして、そのズレを未然に防ぐために自分はどんな表現をすればよかったのか。そういった「アウトプットされた自分」を考えることで自分自身を知っていくのだと思う。人と関わり、コミュニケーションするとはそういうことなのではないかと考えている。
近年、話を聞けない人が増えていると言われている。相手の話を最後まで聞かずに結論を早く求めてしまったり、話し終わるまで待てず、話の途中で理解したつもりになっている人が多いのだそうだ。特に我々学生を例に出すとすれば、話が難しすぎるのか否か、授業の内容を勝手に解釈し勝手に理解できた気になっている学生が多いとどこかの先生が嘆いていたが、普段の会話においても「この人聞いてないな。」と思う場面が私の身近にもよくあるなと共感した。なぜ彼らが人の話を聞けないのかということを考えてみると、冒頭に述べたとおりやはり「小さな物語」化しているのが原因なのではないかと私は思う。これまで述べてきたように、近年のポストモダン下においては自分でコンテンツを生産し消費する物語消費が流行り、ネット上のプロフィールから自分と気の合いそうな友達をリストアップすることができ、ネットという大容量デバイスから自分の信用できる情報だけをダウンロードすることができる。つまり世間や社会がどんなに迷走していようと個人は自分ワールドを作ることができる。このようなことに関して、津田大介が彼のメールマガジンにおいて「意見を交換し合う時に自分と同じような人との意見交換はやがて閉塞化していく。」と述べていたが、たしかにそういうふうに自分の好きな、自分にとって都合のいい世界で過ごしている人は自分とは違う価値観にブチ当たることがないため、「考えなくなる」のかもしれないと私は思う。むろん、好きなものだけで生きていきたいと思うのは本来人の性であるし、わざわざ悲しい経験をしろだとか、難しいことに立ち向かえとはいわない。しかし、これでは自分は何も変わらないし成長しないのではないだろうか。既に自分の中に自分ワールドが構築されてしまっていて、自分のデータベースにないものや自分自身の価値観だけで信用できないと判断したものには見向きもせず、自分の言うことを理解してくれない人は排除していってしまう。そういう傾向が「小さな物語」化の裏側にあることが、「聞けない人」が多くなってしまった原因なのではないかと私は思う。「小さな物語」、つまり自分の生き方、ステータス、自己像を持つのはこの世の中では普通のことである。そうでなければ私たちは迷ってしまうからである。しかし、自分の都合のいいことだけ取り込んで生きていては自分の世界は一向に広がらない。そして何より自分とは違うものに対する感受性が鈍化してしまうということは、自分と他人は違うのだという想像力を失ってしまうということである。都合の悪いもの、価値観の違うものを排除しつづければ一向に他人を知ることができない。ということは、社会の中での自分を位置づけることもかなわないだろう。いくらネットで調べても、それが本当かどうかはわからない。知った気にはなれるかもしれないが、一つの情報源で判断するのは安易である。人間に対しても、いくら相手の一面を知っていようが、それがその人の芯とは判断できない。思うに、ポストモダンでは個人と個人が島宇宙化している。しかし、だからこそ他の小さな物語の存在を許容することが大切であり、人との関係というのがコミュニケーションによって書き換え可能になっているのである。お互いの共通イデオロギーがないからこそ、相手を認めることから始めれば、共通イデオロギーなくして、1対1で理解しあえる可能性が私たちにはあるのではないだろうか。
一旦、目の前に座っている人物の話を受け止めず、他の人とすぐ相対化してしまう人がいる。その人が何か言っても「あーうちの母親もそうだったよ。」とか「あーそういえばあの人もねー…」など自身の近辺の人の話に持っていってしまう。そんな人がいる。最初にも述べたが、先生が何か授業をしたとしても、「あーこれに関しては他の教授は違うっていってたなー」とか「他の本ではこんなふうに言ってたんだけど…」と授業内容を一旦受け止めずにすぐ他の知識と比較してしまう。そんな人もいる。こういう第3者から見て奇妙な会話は自分の生活の中でよく見られたが、この場合は聞き手が相手の話を自分のデータベースと単に相対化しているだけであって、「受け止めてる」とは微塵とも言えない。これも「話を聞いてない」人たちのうちの一つではないだろうか。受け止めるというのは、相手が何か発言したときに、「この人は今日こんなことがあって、こんな意見を持っている。」という事実をそのまま受け止め、自分がそれに対してどう思うのであれ「そうだったんだー」とか「そうなんだー」と一旦相槌を打てばいいだけである。誰も相手の母親や知り合いと比較してほしくてその人に発言しているわけではないだろう。コミュニケーションを投げかけるというのは通常単に、その人に伝えているだけである。そういったすぐ自分のデータベースと比較してしまうような、自分の価値基準でしかものごとや他人を判断することができない「小さな物語」に囚われている人にいくら話をしてもこちら側にベクトルが向かないなら、はっきりいってほっとけばいい話である。ポストモダンがどうのではなく、もともとの性格で他人に興味がないという人はたしかに存在するのだ。しかし、何度も述べるが、いくらポストモダンで多くの人々が自分の小さな物語で生きようと、自分が前進するためには新しい誰かとのコミュニケーションが必要なのである。コミュニケーションといっても、自分の考えていることを的確に表現するのは誰でも難しいことである。しかし、それを割り切って言葉にしないで何もしないかぎり、誰にも自分の意思は伝わらないものである。言わなくても誰かが勝手に察してくれるなんて都合のいいことはない。自分の家庭だとかコミュニティだとかの他の誰かが自分の意見を補償してくれていて、誰かと誰かを比較して自分はこう思うというのもそれはもはや本来の自分ではない。他の誰かと似ていようが、誰かに否定されようが、その人にはその人の感情があるし、私が私であることから離れることは誰にもできない。そして、私たちは他の誰かにはなることができない。責任とはそういうことではないだろうか。他の誰かになることができないから、コミュニケーションによって他人を理解し、他人によって自分が理解されていく。また、対話で表現するのには流暢な言葉やかっこよさはいらないし、いい人を演じる必要もない。言葉がどもることについて、作曲家の武満徹が、
「どもりはあともどりではない。かつては、人間の発音行為は全身によってなされていた。しかし、脆弱な論理に従って口先だけでされるようになってからは、音楽も詩もつまらなくなってしまった。(中略)自然科学の発達につれて語彙が膨らんでいく一方で、ことばは単に他を区別するだけの機能になりさがった。ことばは生命のサインとして機能しなくなったのである。生命のサインという、ことばの根本の言語機能の問題を、我々は考えるべきであろう。音の世界でも、ことばと同じことが起きている。現在の音楽は、脆弱な論理の結果でしかない。一人の人間の最も根源的なものに連なる童歌がもつような、初源的な力を回復しなければならない。その回復の試みは、発音するという行為の本来の意味を確かめることからはじまる。どもりは発音するという行為の根源的なものであり、その偉大さは反復にある。それは地球の回転、四季の繰り返し、人間の一生のあらわれなのである。‐武満徹『吃音宣言』より」
と述べているが、たとえどもっていても、ゆっくりしかしゃべれなくても、伝えたいという意思が体にありさえすれば伝わるのが人のコミュニケーションではないかと私は考えている。
たしかに、現在はポストモダンで私たちは自分にとって都合のいい自分の小さな世界を作りがちだけれども、だからこそ違う物語を生きる他者と関わっていくことが重要なのではないかと私は思っている。小さな物語の中で過ごすだけでは私たちは何も変わらない。大きなイデオロギーというしがらみがなくなった今、人々はより自分らしい小さな物語を持って生きている。いろんな人がいるのだろう。そしてネットを使えば国を超えたさまざまな「小さな物語」に出会うことができる。評論家や試合の監督のごとく誰かと誰かと比較し、距離をおいたところから相手を分析したり、都合のいい人たちだけを抜粋して関わるのではなくて、目の前に人がいるならその人がどういう人間であるのかコミュニケーションをしながら「聞いてみたい」と私は思う。私が私自身を知るのには他者を知る必要があるからである。
(2月4日、2011年度学部の卒論より一部抜粋修正)
.

今日いろいろ兼ねたお祝いプレゼント買ってもらった(●´ω`●)うれしス
Bodyshopのコスメよいよい^^
展示してきました。





先週の土日、大学の学園祭で写真展示してきました。来てくれた方々ありがとうございましたー^^
今年は見にきてくれた知り合いがたくさんいて、知り合い以外にも、他のブース人たちと話したり、
わざわざ作品について話しかけてくれる来場者の方もいたので、とても濃い二日間を過ごせました。
一日目はアジカンの学園祭ライブがあって足の疲労がハンパなかったけど;すごい楽しかったです。
とりあえず初めて生で見てみて、後藤さんはやっぱりカッコイイなーと再確認☆
毎年この学園祭の時期になると、とたんに大学生らしくなる筆者ですが^^;
編集や印刷の努力も実ってDMの減り具合や、見た人の反応がよくて嬉しかったです。
去年から一緒にやっている音楽担当者の楽曲も空間にぴったり合っていたし自分たちでもよくできたなーと思います。
使用した写真はfotologueのほうにあげておいたので来れなかった人は是非そちらを見て下さいネ^^;
最後の学園祭展示、あっというまだったなーと。
疲れるけど3日間ぐらいあればいいのになーと、月曜日普通に起きて、普通に支度して、普通に大学行って、
いつもどおり授業後の構内の人ごみを一人練り歩きながら思った。
来月はもう12月、今週には私も一つ歳をとるわけで、なんだか時間の早さを感じる一方です。
また、いつかどこかでこーいうコラボ展示みたいのがやれたらいいなーなんて^^;
そういえば、写真だけでも十分できますよーなんて言われたけど、ちょっと自信ない^^;
普通の印画紙に刷って、普通の写真展示にしてしまうと、ホントに良い意味で違和感を残せる写真でないと、
寂しい感じがするんですよね。自分が撮ってる系統の写真だと。
何かメッセージ性を意識したドキュメンタリー写真でもないし。『マズシイコドモタチ』だとか『ヒサイチ』の写真だとか?
私の写真で、写真写真してしまう空間を作ってしまうと返って違和感な気がします。
また来年どこかのギャラリーで卒業制作でも考えてみようかな^^;販売できるし。
また写真がんばろ^^;
でわでわ、早稲田祭参加していた人来た人見れなくてバイトだった人(笑)おつかれさまでしたー^^
< 前のページ
次のページ >





